-なんか。
自分の心が感じたことを正解としていい。
自分の気持ちを信じていい。
直感を捨てないこと。
「何か」という感覚を大切にすること。
答えの見えない正解に導くことなんて出来ない。
だけど
何があっても「大丈夫」という見えない安心を与えることは出来るのかもしれない。
いや、親なんてそれくらいしか出来ないのかもしれない。
「何か」居心地が悪いんだよな。「何か」違うんだよな。という感覚。
言葉にならない思い。カタチにならない気持ち。
思春期真っ只中の中学生には、よりあるんだろうと思っていて。
大人が思うより、子どもは頭と心と言葉が繋がらない。
一方で、もしかして大人が思うよりずっと、自分のことが見えているのかもしれない。
-子育ての赤点面談
学校から呼び出される面談は、親の赤点面談だった。
「どうして試験の結果が良くないんですか」という言葉は
「どうして勉強させないんですか?勉強させてください」に変換され、
「協調性がなくてクラスのみんなが困ってます」という言葉は
「どんな教育してるんですか?家庭で指導してくださいよ」に変換された。
面談のたびに、自分の子育てに自信をなくして、誰のための子育てなのかわからなくなった。
面談から帰ると決まって「なんでちゃんとやらないの?」と叱りつける。
(アナタのせいで、私が赤点つけられたじゃない)という心の声を添えて。
そのあとは、決まってケンカ。それから、夜ベッドの中で反省。そんなことの、繰り返し。
誰にも分からない、子育ての100点は一体いつ、どんなタイミングで取れるんだろう。
それでも子育てはまた明日もやってくる。
-「諦める勇気」と「闘う覚悟」
中3の冬。
唯一の志望校不合格後、彼の出した決断は「高校には進学しない」ことだった。
中卒….それだけが私の頭をいっぱいにして、何度も話し合った。彼に黙って願書も出した。
彼は大激怒した。
「ママだって何が正解かなんてわからないから迷ってる」と泣いた私に、
「俺も何が正解かなんて分からない。だけど、自分の人生だから自分で決めたい。大変なことがあることもわかる。それでもそうしたい」とまっすぐ見つめてそう言った。
子ども。
それは大人より何も考えられないという意味ではない。
子ども。それは未成熟であるということではない。
子ども。大人より視野が狭いということではない。
育児とは、子どもの言動をどう処理するのかではなく、
子どもの思いを尊重することが求められることの連続なのだ。
-エール
何かを選ぶということはその分違う何かを失うということ。
何かを掴むということは
ここまでよくやったという喜びと、ここまでしかやらなかったという思いを同時に知ることでもある。
だからこそひとは、自分が選んだ小さな世界を守り続けるしかない。
選択が間違っていると認めてしまったら何も残らない気がするから。
選んだ道が合っているかなんて分からない。
だからこそ自分の選択を正解にしていくためにひたむきになればいい。
たとえ不安に押しつぶされそうだとしても。
これだけは確信を持って言える。
大丈夫。
がんばれ。